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冷蔵庫のメモ感覚

冷笑

この記事を読んで今回の事を書こうかと思った。冷笑主義とは

他者の言動を利己的な利益追求という動機の語彙でつねに解釈しようとする態度

らしい。 僕は”揚げ足取り”とも言えると思う。

 僕は冷笑が好きだ。なぜなら楽に面白い、自分が頑張らなくても他人の揚げ足をとる事で他人とつながっているような気になれるし、頭もよく見えそうだし。正しいと思えることをするよりも人の正しさを否定する方がずっと簡単な気がする。しかし、以前の僕よりかは冷笑を操れるようになってきた自信が湧いてきたので、この記事を書いている。

冷笑は様々な場所に潜んでいる。(ここでの冷笑は上の記事の意味合いと少し異なってくるかもしれません)

 

 まず、冷笑はスポーツの文化と密接に結び付いているのだと僕は感じる。僕の父は仕事から帰ってくるなり野球をTVで観ることが多いのだが、常に選手を馬鹿にしている。この前の侍ジャパンの壮行試合にて山口俊というジャイアンツの選手が炎上した際には、一年ほど前に彼がお酒に酔い暴動を起こした事と絡めボロクソに彼の人格否定をひけらかし始めた。今日も世界中にて様々なスポーツの中で様々な”失敗”が発生し、それを大々的に否定する事でエネルギーを得ている人々が社会を動かしていることは、”なんj”などのサイトを少し覗けば明らかなことである。

 

 お笑いとも関連が深い、時にコンプレックスを昇華させ人を救う芸人のプロの絶妙な技は本当にすごいと感じたりする。ていうか話が上手い人は”冷笑”が上手い気がする。バラエティのいじりの文化とかを観ていてもよく思う。しかし、”冷笑”の用法容量を知らない人が使う冷笑はびっくりするほど面白くない、とよく感じる。人のどうしようもならない点を一緒に笑い合い慰めるという感覚がなく、ただただ馬鹿にすることが絶対的に面白いと勘違いをしている。だから彼らの特性として、ルッキズムが激しいというのがある、と感じる。僕の父もTVに女性の顔が映る度に「変な顔だな」とかよく言う。それに対し本当に面白くない、と母とよく共有したりする。アイドルなどに対して当たりが厳しい人にもこれが当てはまりそうだ。

 

 そして引用した記事にもあったようにネットは冷笑を共有と言う形で加速させている。”正義の盾”のもと集うも良し、右翼思想に乗っかり韓国人などに対し残念な言葉などを言ってしまう人がいるのも本当にまた悲しい事実である。集団には力が宿り、人を狂わす、と感じる。”ネットでの議論は可能か”という項目が記事にあったが、”批判”とは”物事を前に進ませるため”の論理的なものでなければならず、ネットをストレスの吐口として利用する文化と衝突せざるを得ない状況で、僕の中では、議論は可能ではあるが、後者がめちゃくちゃ”邪魔”になっているという表現がしっくりくる。

 

 さて、ここまでの内容はネット上でよく批判されている事柄のように思える。冷笑主義は見ての通り基本最悪である。彼らは楽に面白い冷笑が大好きだし、他人と何かで繋がりたい欲求が高いので人をルッキズムジェンダー、文化の違いなどで貶めようとし、誰かが傷ついている。そこで傷ついた人は本当に絶対的に救われるべきなのだ、なぜなら100%その人達は悪くないし、あまりにも一方的だからだ。今から話すことはこの点が最低ラインの前提として話すのだが、この問題の大抵の解決の手段は”どうしようもない彼ら”を無視、すなわち冷笑するしかないように思える。論理の成り立っていない言葉の刃など、無視が一番良いからだ。もっと言ってしまえば”冷笑”の格好の餌食とも言える。

 

 僕の長年のネットに対する違和感はここにあると今感じていて、なんだ、こう、どうしようもない感が本当にたまに悲しくなる。冷笑主義をようやく俯瞰して見られるようになったと思ったら、そこには”冷笑主義への冷笑”が待っている、なんという皮肉なのだろうか笑。僕は気付いたら父をも冷笑していた。やはり僕は冷笑が好きだ。

 

 僕が言いたいのは、正論で冷笑主義者の被害者の心は救われるが、冷笑主義者は救われないという事だ、何故なら彼らは”開き直っている”から正論は効かないのだ。いや実際には効いているのだがそれが悪い方向にでやすいと思う。僕がそうだったから解る気がする。彼らには正論より愛が足りない、幼少期のころに自己肯定感の高め方を習得することができなかった彼らは、陰口を叩くことで己の自尊心を守ってきた。冷笑とともに育ってきた彼らはネットに出会い、冷笑の大きな力の渦に魅了され、迎合していく。

 

 しかし、今の時代にネットにおいて陰口を叩くという文化は、完全に終わりを迎えようとしている気がしてならない。利益として見た時の”終わり”だ。一つの”ダサい”力の枠に吸収され本当に”キツい枠”として正論派からも認識され、ある程度冷笑されてしまう現状からも逃げて逃げて悪口を叩く人に一時的な快楽など、ほぼ無いに等しい。快楽が少ないから、彼らは冷笑主義を加速させるしかない。何故なら彼らは己の自尊心のピュアな育み方を習得できなかったのであり、自分がどうすれば誰かに勝てるのか、わからないからだ。前提から間違っていると僕は考える。他人に勝つという行為は己が成長するための枠組みの一つでしか無いのであって、本当は他人に勝つという価値観は、自分が成長していくという価値観を超えるべきで無い。ていうか他人なんかに勝つ必要なんて全く無いのかもしれない、実は。

 

 人はやろうと思えばいくらでも人を貶めることができる、どんなに優しい人を前にしても、人間には必ず欠点があるからだ。「〜が好きだ」という意見に対しても「〜が好きだとこいつは思われたいんだな」とかも思えてしまう。そしてその行為が人間として高尚な事であるとか大人になる事だとか考えだすともう最悪だ。言葉は自分に帰り、純粋に何かが好きであるというプリミティブな感情がどんどん希薄になり、本当につまらない人間になってしまう。何かだるい、とか、夢中になれる物がないという感覚に苛まれ生きるのがどうでもよくなってくる。しかし、解決手段がわからないので冷笑主義のノリに走るしかないのだ、本当に沼である。

 

 小説家などのプロは、何かどうしようもない現実や美しさに”貢献”しようと思って書いているのであって、しっちゃかめっちゃかに悩んでいるわけではないのだと、僕も最近気付いた。”冷笑主義”とそうでない人の最大の違いはそこにあると僕は考える。何が物事を前身させるため、”貢献”するために物事を考えている。凡人が全ての物事に対し唾を吐き、批判し、クールぶったり天才ぶったりするのは本当にダサい、一番ダサいと思う。僕もそんな時期があったで解るのだけれども、この思想に陥ると本当に救われない。何故なら、何にも貢献できないし、終わりがないからだ。本当に辞めることをお勧めする。芸術とは悦に入るものではなく、己の悩みや思想や美しさを泥臭く前身させることによって結果的に誰かに”貢献”できる物なのではないかと、最近よく考える。

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 以前の僕ならこんな文章は書けなかった、何故なら自分の文に対しての冷笑が始まるからだ(今も若干内心で始まってはいるが)。所詮人間から生まれた行動や言葉からは”こう思われたい”といった思惑が少なからず付随する。それに敏感になりすぎてしまうと、”何にも心情的な変化がない時”が一番楽に感じ始め、いずれ枯れるのだ。そう、僕は三年程前、一度マジで枯れていた。今思い返せばあの頃の感覚は本当に怖い、薄甘い絶望だ。

 

 昔の僕がこのブログを読んだらきっと「悦に入ってる」とか「分かった気になっているだけのクソ野郎」とか思っていただろう。現にこれを読んで思っている読者の方もいるだろうと思う。でも今の僕はそんな感情や人が、びっくりするほど怖くない。何故なら僕は”冷笑主義の力の渦に苦しむ人”、つまり、誰かに貢献しようと思って書いているからだ。何かに貢献しようという力がこんなにも強い力だとは思いもしなかったし、それを気付いて欲しい。貢献するものはなんでもいいと感じる、”自分”でもいいし”横にいる誰か”でもいいし”美しさ”でもいいと思うし”仕事”とかでもいいと思う。ただ、無理をしすぎて己の身を削りすぎてもそれはそれで病む。要はバランスが大事だという結論になるのだが。ずっと一つ思っていたのは、身を削りすぎている人を救おうとする文はネット上にでも結構あるのだけれども、冷笑主義によって枯れている人を救おうとする文は意外とないな、ということだ。なので、今回書いてみた、、ということだ。

 

誰でも前進していいし、冷笑で最強になる必要はない!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12/1に僕が作詞とボーカルで参加したREVERSE GATE CLUBというシューゲバンドの

初音源『グライコ』がストリーミングとbandcampにて配信されましたので、よかったら聴いていただきたいです、ではまた。

 

 

 

 

 

 

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