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冷蔵庫のメモ感覚

いまなにしてる?

冷蔵庫の機械音はそのまま夜の深淵で木霊していてね、手持ち無沙汰な耳がそれをキャッチしていてね、最高に生きてる感じがする。

 

詩は匂わせる遊びなんさ。真実を匂わせとる、でも誰も真実なんか知らんと?だからあんたは疲れるンさ。

 

サイゼリアでワインを飲みたいなー、高いレストランとかじゃなく、サイゼリアなんだよなー。みのくんを浴びて飲みたいんだよなー。

 

3030土星オリンピック出場したい。

 

今日なにしたっけなー、どうせ死ぬしな。

 

まつけんさんの日記、本当にただただ癒しだったな。ディアンジェロのVooDoo、めっちゃ良い。

 

自分は一回も感動していないのかも。他人が感動したものを吸収した感覚、触覚にただただ"これは悲しい""これはヤバい"のラベルを貼っているだけなのかも。つまり相対的。

 

オーロラ見たい。

 

あったかい白米たっくさんたべたい、味の濃い豚キムチとかで。

 

明日でテスト終わる、ヤター。

 

この世に感動しなきゃいけないものなんてないし、いつ感動しても良いと思う。でも感動の競争を感じる。感動しなきゃ、怒らなきゃって、なってる。自分は鈍感なので、そこで落ち込む。

 

キリンジ楽しみだ、最近弓木さんのギター講座みたいなyoutubeの動画も見てるしcherishもずっと聴いてる。

 

ヤツコアとTOURも楽しみだ、ヤバい音楽を下さい。

 

詩は匂わせる遊びなんさ。真実を匂わせとる、でも誰も真実なんか知らんと?だからあんたは疲れるンさ。→本当の詩は匂わないのかも

 

死にたいなー←いまここ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

冷笑

この記事を読んで今回の事を書こうかと思った。冷笑主義とは

他者の言動を利己的な利益追求という動機の語彙でつねに解釈しようとする態度

らしい。 僕は”揚げ足取り”とも言えると思う。

 僕は冷笑が好きだ。なぜなら楽に面白い、自分が頑張らなくても他人の揚げ足をとる事で他人とつながっているような気になれるし、頭もよく見えそうだし。正しいと思えることをするよりも人の正しさを否定する方がずっと簡単な気がする。しかし、以前の僕よりかは冷笑を操れるようになってきた自信が湧いてきたので、この記事を書いている。

冷笑は様々な場所に潜んでいる。(ここでの冷笑は上の記事の意味合いと少し異なってくるかもしれません)

 

 まず、冷笑はスポーツの文化と密接に結び付いているのだと僕は感じる。僕の父は仕事から帰ってくるなり野球をTVで観ることが多いのだが、常に選手を馬鹿にしている。この前の侍ジャパンの壮行試合にて山口俊というジャイアンツの選手が炎上した際には、一年ほど前に彼がお酒に酔い暴動を起こした事と絡めボロクソに彼の人格否定をひけらかし始めた。今日も世界中にて様々なスポーツの中で様々な”失敗”が発生し、それを大々的に否定する事でエネルギーを得ている人々が社会を動かしていることは、”なんj”などのサイトを少し覗けば明らかなことである。

 

 お笑いとも関連が深い、時にコンプレックスを昇華させ人を救う芸人のプロの絶妙な技は本当にすごいと感じたりする。ていうか話が上手い人は”冷笑”が上手い気がする。バラエティのいじりの文化とかを観ていてもよく思う。しかし、”冷笑”の用法容量を知らない人が使う冷笑はびっくりするほど面白くない、とよく感じる。人のどうしようもならない点を一緒に笑い合い慰めるという感覚がなく、ただただ馬鹿にすることが絶対的に面白いと勘違いをしている。だから彼らの特性として、ルッキズムが激しいというのがある、と感じる。僕の父もTVに女性の顔が映る度に「変な顔だな」とかよく言う。それに対し本当に面白くない、と母とよく共有したりする。アイドルなどに対して当たりが厳しい人にもこれが当てはまりそうだ。

 

 そして引用した記事にもあったようにネットは冷笑を共有と言う形で加速させている。”正義の盾”のもと集うも良し、右翼思想に乗っかり韓国人などに対し残念な言葉などを言ってしまう人がいるのも本当にまた悲しい事実である。集団には力が宿り、人を狂わす、と感じる。”ネットでの議論は可能か”という項目が記事にあったが、”批判”とは”物事を前に進ませるため”の論理的なものでなければならず、ネットをストレスの吐口として利用する文化と衝突せざるを得ない状況で、僕の中では、議論は可能ではあるが、後者がめちゃくちゃ”邪魔”になっているという表現がしっくりくる。

 

 さて、ここまでの内容はネット上でよく批判されている事柄のように思える。冷笑主義は見ての通り基本最悪である。彼らは楽に面白い冷笑が大好きだし、他人と何かで繋がりたい欲求が高いので人をルッキズムジェンダー、文化の違いなどで貶めようとし、誰かが傷ついている。そこで傷ついた人は本当に絶対的に救われるべきなのだ、なぜなら100%その人達は悪くないし、あまりにも一方的だからだ。今から話すことはこの点が最低ラインの前提として話すのだが、この問題の大抵の解決の手段は”どうしようもない彼ら”を無視、すなわち冷笑するしかないように思える。論理の成り立っていない言葉の刃など、無視が一番良いからだ。もっと言ってしまえば”冷笑”の格好の餌食とも言える。

 

 僕の長年のネットに対する違和感はここにあると今感じていて、なんだ、こう、どうしようもない感が本当にたまに悲しくなる。冷笑主義をようやく俯瞰して見られるようになったと思ったら、そこには”冷笑主義への冷笑”が待っている、なんという皮肉なのだろうか笑。僕は気付いたら父をも冷笑していた。やはり僕は冷笑が好きだ。

 

 僕が言いたいのは、正論で冷笑主義者の被害者の心は救われるが、冷笑主義者は救われないという事だ、何故なら彼らは”開き直っている”から正論は効かないのだ。いや実際には効いているのだがそれが悪い方向にでやすいと思う。僕がそうだったから解る気がする。彼らには正論より愛が足りない、幼少期のころに自己肯定感の高め方を習得することができなかった彼らは、陰口を叩くことで己の自尊心を守ってきた。冷笑とともに育ってきた彼らはネットに出会い、冷笑の大きな力の渦に魅了され、迎合していく。

 

 しかし、今の時代にネットにおいて陰口を叩くという文化は、完全に終わりを迎えようとしている気がしてならない。利益として見た時の”終わり”だ。一つの”ダサい”力の枠に吸収され本当に”キツい枠”として正論派からも認識され、ある程度冷笑されてしまう現状からも逃げて逃げて悪口を叩く人に一時的な快楽など、ほぼ無いに等しい。快楽が少ないから、彼らは冷笑主義を加速させるしかない。何故なら彼らは己の自尊心のピュアな育み方を習得できなかったのであり、自分がどうすれば誰かに勝てるのか、わからないからだ。前提から間違っていると僕は考える。他人に勝つという行為は己が成長するための枠組みの一つでしか無いのであって、本当は他人に勝つという価値観は、自分が成長していくという価値観を超えるべきで無い。ていうか他人なんかに勝つ必要なんて全く無いのかもしれない、実は。

 

 人はやろうと思えばいくらでも人を貶めることができる、どんなに優しい人を前にしても、人間には必ず欠点があるからだ。「〜が好きだ」という意見に対しても「〜が好きだとこいつは思われたいんだな」とかも思えてしまう。そしてその行為が人間として高尚な事であるとか大人になる事だとか考えだすともう最悪だ。言葉は自分に帰り、純粋に何かが好きであるというプリミティブな感情がどんどん希薄になり、本当につまらない人間になってしまう。何かだるい、とか、夢中になれる物がないという感覚に苛まれ生きるのがどうでもよくなってくる。しかし、解決手段がわからないので冷笑主義のノリに走るしかないのだ、本当に沼である。

 

 小説家などのプロは、何かどうしようもない現実や美しさに”貢献”しようと思って書いているのであって、しっちゃかめっちゃかに悩んでいるわけではないのだと、僕も最近気付いた。”冷笑主義”とそうでない人の最大の違いはそこにあると僕は考える。何が物事を前身させるため、”貢献”するために物事を考えている。凡人が全ての物事に対し唾を吐き、批判し、クールぶったり天才ぶったりするのは本当にダサい、一番ダサいと思う。僕もそんな時期があったで解るのだけれども、この思想に陥ると本当に救われない。何故なら、何にも貢献できないし、終わりがないからだ。本当に辞めることをお勧めする。芸術とは悦に入るものではなく、己の悩みや思想や美しさを泥臭く前身させることによって結果的に誰かに”貢献”できる物なのではないかと、最近よく考える。

open.spotify.com

 

 以前の僕ならこんな文章は書けなかった、何故なら自分の文に対しての冷笑が始まるからだ(今も若干内心で始まってはいるが)。所詮人間から生まれた行動や言葉からは”こう思われたい”といった思惑が少なからず付随する。それに敏感になりすぎてしまうと、”何にも心情的な変化がない時”が一番楽に感じ始め、いずれ枯れるのだ。そう、僕は三年程前、一度マジで枯れていた。今思い返せばあの頃の感覚は本当に怖い、薄甘い絶望だ。

 

 昔の僕がこのブログを読んだらきっと「悦に入ってる」とか「分かった気になっているだけのクソ野郎」とか思っていただろう。現にこれを読んで思っている読者の方もいるだろうと思う。でも今の僕はそんな感情や人が、びっくりするほど怖くない。何故なら僕は”冷笑主義の力の渦に苦しむ人”、つまり、誰かに貢献しようと思って書いているからだ。何かに貢献しようという力がこんなにも強い力だとは思いもしなかったし、それを気付いて欲しい。貢献するものはなんでもいいと感じる、”自分”でもいいし”横にいる誰か”でもいいし”美しさ”でもいいと思うし”仕事”とかでもいいと思う。ただ、無理をしすぎて己の身を削りすぎてもそれはそれで病む。要はバランスが大事だという結論になるのだが。ずっと一つ思っていたのは、身を削りすぎている人を救おうとする文はネット上にでも結構あるのだけれども、冷笑主義によって枯れている人を救おうとする文は意外とないな、ということだ。なので、今回書いてみた、、ということだ。

 

誰でも前進していいし、冷笑で最強になる必要はない!

 

 

 

 

 

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銀翼

最近インプットばかりでアウトプットを怠っていたので、無理矢理文字をスマホに捻じ込んでいます。前に調べた事があるのだけれど、インプットとアウトプットの比率は3:7が良いらしい、知らないけど。でも考えがまとまったり、こんな事を自分は感じていたんだって発見があったり、アウトプットは確かに大事だよね。焼鳥ぢゃんも書いていたけど、表現には勇気が必要だ。たまに億劫になるけれども基本楽しいからそこは頑張りたい。

 

昨日Netflixに加入したので、タクシードライバー虐殺器官ハイスコアガール宇多田ヒカルのライブ、、、なんかを今日観ていた。

Netflixのプレミアムプラン(月額1800円)を4人で割って入っているので月500円弱と、なかなかお手頃な価格で楽しんでいるので、今気持ちがホックホクだ、ホックホクだなー。

しかしこれで一生暇を潰せるんじゃないかと思うくらい、たくさんのコンテンツがある、、くらくらするくらいに。

今回はその今日観たコンテンツの感想を書いていきたい。

 

Taxi Driver | Netflix

タクシードライバーはjokerの予習的な感じで観たのだけど、ニューヨークの漆黒の街を彷徨う黄色いタクシーが個人的に夜の海のフェリーに乗っている様で、映像的に最高でした。若者の吐口のないストレスが加速する映画というスタンスではあったのだけど、だらーっと己が抑圧され続けている生活が大きい形を持って一瞬で暴発しうる様を2時間弱という映像を持って丁寧に表現されている事そのものに感動しました。暴発は直接的に出来事との因果関係を結ぶ事は難しくて、でもこの映画の中では順当であり凄くリアルだなーと。東京03のコント“蓄積”が凄く好きなんですけど、順当に暴発してしまったけれど理解を世間から得られない、損をしている人が好きだからなのかもしれない。(タクシードライバーでは世間的には良い方向に行ったみたいだけど)

BGMもバーナード•ハーマンのサックスが絶妙にくどくならず、盛り上がり過ぎずでとても良い塩梅だった。HiHatの音がカッコ良すぎる。

Medley:A Night Piece for Orchestra / Prelude / Blues / Night Prowl / Bloodbath / Finale - From "Taxi Driver", a song by Bernard Herrmann on Spotify

 

Genocidal Organ | Netflix

虐殺器官は小説を読んでアニメも観た感じなのだけど、最後クラヴィスがピザを一人食いながら遠くの銃声を聞いてガンギマるエピローグが映像化されてなくて、もうそれだけで-40点って感じでした。

あの最高なエピローグのシーンもないし、人が花のように死んでゆく伊藤計劃のグロテスクな表現をアニメに落とし込めたかと言われればまあ微妙なのかもしれない。(ていうか原作が凄すぎるのかもしれない)でも作品の雰囲気自体がとても好きなので、楽しかったな。

 

Hi Score Girl | Netflix

ハイスコアガールは神。

小学生の頃の男子なんてみんな大抵ゲームと気になる女の子の事で頭一杯だったはず(偏見)

ていうかオープニングで使われていたsora tob sakanaって凄いですね。

New Stranger, a song by sora tob sakana on Spotify

音数はかなり多いのだけども、音像としての“球体”は維持されていて、真ん中に人がいる。以前パーゴルさんにミックスのコツとして“球体”を意識する事を教わったのですが、それを高度に実現されてしまっていて、少し拍子抜けしてしまった、良い歌。

今度改めてこの“真ん中に人がいる球体”について書きたくなったな、、

 

Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018 | Netflix

宇多田ヒカルも良かったー、としか言えない。。

音楽に関しては一日10時間聴いていたりするのに感想を言語化するのが自分は苦手で、そこに劣等感を感じたりもするけど、フィーリングで良いものは良い!This is 音楽!っていう性質も好きな所ではあります。

基本1曲の中での感情の揺らぎは映画や物語に比べて音楽はとても少なくて、感情の変化を楽しんだりするよりかは、“ひとつの感情に聴き手を染め上げる”感じが僕はとても好きで、ポップスの魅力だと思ってます。

宇多田ヒカルはその染め上げてくれる色が独特というか、たくさん色が入ってる色鉛筆の独特な色の名前あるじゃないですか、あんな感じ。“ボンバドゥール婦人の笑顔”とか“ムール貝の赤ワイン蒸し”とか笑

それで染められるの笑、染められたわ、、みたいな感じがクセになる。その色がライブの中で曲が移り変わり様々に変化して行く、たまに王道の赤とオレンジとかが混ざる、その移り変わりに集中する、楽しい、至福。って感じでした。

 

以上!!!Netflix入った事ない人は1ヶ月無料で体験できるので是非、おすすめです。

 

ところで、このブログにNetflixSpotifyのリンクを貼っていて思ったのだけれど、純粋に凄い変化であるなと。上手く言えないけど、飛行機が世の中に登場した時もこんな感覚だったんじゃないかなって思うくらい、“速い”。哲学の“本当に重要であるのは内容ではなく媒体である、内容は媒体により変化する”という言葉を思い出してしまう。ちょっとこの感覚になるの、遅かったかな。

音楽ではストリーミングなんかでその感覚は多少あったけれども、2時間越えの映像作品ですらいとも簡単に移動できてしまえるんだというか、やはり巨大な鉄が人を乗せて空に浮かんでしまうという感覚が飛行機の登場に何処か似ている気がしてしまうのです。

 

銀翼、綺麗。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブログ始め:Freindship(星野源)考察

こんにちはクコルカです。最近市立大にてイベントに出させて貰ったのですけど、楽しかったですね。(本当にありがとうございました)祈りは注意力という言葉が有りまして、木漏れ日溢れる森の中でそんな感じになりました。hugvillaさんという方もこのイベントに出ておられてまして、綺麗なエレクトロニカをバックに詩の朗読をしていくのですが、そこに強い祈りを感じて、自分においてもそれを当てはめる事が出来た感じです。これが本当に何とも言えない良さがあるんですよ。ひとつのことに没入していく時間、つまり祈りは自分の中にあるマイナスな感情を限りなくゼロに近づけてくれますでしょう?自分はプラスになったらいずれマイナスになる事を考えてしまうたちなので、本当に良いんです。ラーメンが美味しいとかSNSでいいね!を沢山貰うとかとはまた全然ベクトルの違う良さなんですよ。僕はこの良さがようやく解ってきた気がするんです最近。その分目先の欲望の暴走に走る自分とのギャップにイライラする事も増えてきました。そしてまた“プラスの時にマイナスになる事考えてもしょうがなくない?あーただただたのしーことしたい”モードになってくるんですねー。どっちかのモードに固定出来れば楽なんでしょうけども、その固定してしまう事に関してもまた恐怖してしまうんでしょうね。ああやだやだ、ブッダになりてえ。

 

自分のマブダチ、焼鳥ぢゃんにブログを始める事を今年の6月くらいに勧められてから幾分か機会を伺っていたのですが、今日きっかけをようやく掴めたので、始めます。(焼鳥ぢゃん、ありがとう!)

https://twitter.com/kinada23/status/1176141094418964480?s=21

こんなツイートが流れてきたので、ちょっと書きたくなったのですよ。(k/inadaさん、ありがとう!)

https://open.spotify.com/track/6BQkSdgPMRdXTfW3ZT0WHY?si=v3eRenSQS_6MNk_u7WQXiQ

星野源のFreindShip、本当に良い曲!

今回はこの曲について思う今日この頃を書いていきます。

 

まず、この曲の解釈は”ヒトの笑いという仕草への解釈”であると自分は考えます。

「わからないまま 笑い合うさま」

という歌詞が印象的ですが、ここで重要なのは

分かり合う≠笑い合う ということだと思うんです。

そもそも人間の全てをさらけ出して分かり合うことなんて自分には不可能な話に思えてしまうんです。必ずどちらかがあの部分では無理をして、この部分ではもう片方が、、、のやり取り、接し方の中での笑い合いなんです。例えば相手の言葉がうまく聞き取れなかった時(自分は他人の話を言語化する能力に乏しいのでよくある)愛想笑いをヒトは良くするじゃないですか。自分は、ヒトと対話する中での笑いには、その“愛想笑い”が(割合は時によって様々、限りなくゼロに近づく場合もあるが絶対にゼロにはならない)必ず含まれているんじゃないかと思うんです。お笑い番組を一人で見る時と複数人で見る時では笑いの量が違う様に、家では地球くんのツイートを真顔でいいね!するのに友達とはゲラゲラ笑えてしまう様に。でも愛想笑いがないとヒトと対話するのってかなり厳しくなると思うんです。全てがわかり合って同じ事がツボな人なんてこの世に居ないからです。(そんな世界逆につまらないと思う)

 

そんな世の中でこの曲の主人公はヒトと対していく中で、確実に、絶対的に、保障された不変の愛を探している、というまさに絶望的なシチュエーションの中にいるわけですね。(でもこの感覚って一回は必ず誰しもが持ったことありますよね、これが彼のポップ感というか、ひしひし感じます)

「君の手を握るたびに わからないまま

胸の窓開けるたびに わからないまま

笑い合うさま」

人生の中でヒトと会う。この人は私の全てをわかってくれるかもと思い、少しさらけ出してみる、ん?違うか、、、の繰り返しの日々の中で愛想笑いだけが上手くなっていく。心の起伏の動きがよく現れているとても好きな表現です。その中で正直に笑っていない自分が嫌になってしまう、不安になってしまい、ひとりだけでいるのが気楽になっていくわけです。

 

でも好きな人がいづれできるわけですよ、人間なので。でも絶対にわかりあえない、このもどかしさ、絶望さ。必ず何処かでぶつかり合う。でもその人といる時間が本当に好きだから、その度にどちらかが無理をして笑ったりし合う、“本質を突かないまま逃げ切る”とでも言いましょうか。完璧な人なんて居ないので欠点を突こうと思えば誰でも突つけるわけです。それは距離が近くなればなるほど、肌のシミの様に明瞭になってくるわけです。それでも好きだからそのシミに気づいていない振りをする、無理する。愛想笑いで時を埋めていく。そして、いつまでもいつまでも二人が笑い合った末に、彼はこのような言葉を送っているんです。

「わからないまま わかりあった」

わからないまま 、わかりあった。つまり、“絶対に分かり合えない世界の中で、一瞬だけ、僕は君とわかりあった感覚になったんだ”ということだと自分は解釈します。この感覚のなんと儚いことでしょうかね。曲の構成の中でも“わかりあった”のフレーズを喰いぎみに次の“君の手が”のフレーズに移り変わっていくこの配置が、分かり合った感覚の刹那感を増幅させているようにも思えます。

 

そしてまたその感覚は一瞬にして消え失せます。

「君の手がほどけるとき 叶わないまま

胸の窓光る先に 手を振りながら

離れ行く場所で 笑い合うさま」

絶対的な愛、理想は叶わないままです。しかしその感覚から離れ行く場所でも彼らはまだ笑い合っています、またその感覚を味わいたいからです。

 

これらのことを踏まえて結論から言いますと、この歌は分かり合えた感覚に辿り着く為の仕草、つまり愛想笑いを、星野源が絶対的な愛に昇華させようとしている歌だと自分は思うんです。絶対値の高い”love”の領域世界とは関係を持たない、このような愛のカタチのことを、彼は改めて”freindship”と呼んでいるのではないでしょうか。

この曲における“笑い”とはヒトとヒトが深くなりすぎた時に使う仕草、一旦ゼロにしてくれる技だと思うんです。一番最初の話に戻りますが、つまり笑いとは“祈り”だと思うのです。ヒトに好きと伝えるプラスでもなく、ヒトに悪口を言うマイナスでもない、ただただ間を繋いでいき時間を引き伸ばしゼロに近づけていくという祈りに似た行為なんです。“二人で行う祈り”、それが“互いに笑い合うこと”なんだと、自分なりに納得をすることができました。“好きと言われても絶対的には信用できない、嫌いと言われてもそれは気持ちの裏返しなのかもしれない、絶対に分かり合えない、ならば僕と一緒にゼロになろう、それが愛(freindship)なんだ”ということです。心から出た笑いじゃなく、愛想笑いでもそれでいいんだ。己を全てひけらかし強烈なloveを叫び、湧き出るhateにいちいち反応しなくても、ヒトとヒトはほぼ絶対的な愛(freindship)で繋がることができるんです、という聖書ばりの救いが(結果的に?)この曲に落とし込められているのでは、と僕は思うのです。

 

この“人間関係でガチになりすぎない、深追いしすぎない優しさ”の感覚は、“真面目にふざける”が信条である彼にとって一つの大きな柱になっていると自分は考えます。つまり、この曲は彼の生き方の指標そのものなのかもしれないですね。そして、昔から彼は言っていることはなに一つ変わってなかったのかなとも思います。

「くだらないの中に 愛が」 

です。

いやー、気づいてびっくりしてしまいました。

笑いやくだらないこと、それは祈りであり、愛なんですね。何気なく友達と笑っている時間を大切にしようと思えてくる、そんな一曲でした。

 

いやー、改めて良い曲だなと、文を書いていて思いました。ちょっと自分の中のモヤモヤを解消しながら書いていったので、たどたどしいところは多少あったかと思われますが、最近の自分の悩みがかなりすっきりしたなあと、自分でもびっくりしていく所存であります。文を書きながら思考すると考えが柔軟になっていって気持ちいいですね。

少し長くなりすぎてしまいました。また投稿したいですね、それではー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P.S. このブログをもんじゃさんこと澤田さんに捧げたいと思います。タイミング的にも経緯的にもこのブログは澤田さんが僕に書かせたものだと何故か確信できています。もっと色々な話を伺いたかったです。今までありがとうございました。