クコルカ.128kbps

冷蔵庫のメモ感覚

マクガフの逆襲

日本シリーズの季節だね(すっとぼけ)。前年最下位同士のチームでの日本シリーズはとても新鮮で、ヤクルトは塩見、オリックスは杉本といった今シーズンブレイクした選手が、、、。みたいな野球の話は野球に興味の無い人に対してとても滑稽に映ることを僕は知っている(とあるオタクの顔を思い出しながら)。野球の話ほど虚無で、雑多で、時間を埋め合わせてくれる話題はそう無い。しかし、大抵の人間は話題を埋め合わせることに必死であるので、野球の話題はかなり世の中では必要とされていることを自分の好きな話題のみで時間を全て埋め合わせることのできる人々に知らしめておきたい。まずは、野球の話題でしか話題を繋ぎ止めることが出来ない家庭や職場を想像してみて欲しい。あ、やっぱり止めようか。。。

しかも明日は日本シリーズをとある友達の家で観ることになってるので、野球の話はそこですれば良いだけなのだ。そして野球はピッチャーがボールを投げる瞬間のみ集中して観れば観戦が成立するので(良い意味で、良い意味でね)、今僕はこの文を書けている。野球の懐の深さに感謝したい(村上春樹神宮球場でよくヤクルトの試合を観戦しながら小説を書いていたらしいよ)。ちなみに試合は抑えのマクガフが1戦目のリベンジを果たしヤクルトが勝ちました。やったね。はい、野球の話終わり。

 

デカ音部屋というデカい音が出せる(直球)東区警察署の前にある部屋があり(だから治安は最高)、そこで10時間軟禁されながら音楽を聴きつづける会に最近参加した。夜22時から朝8時までのわくわくする夜更かしの時間帯で行われ、東方アレンジをかけまくり「実はこれ東方アレンジなんすよ」を連発する方やgroup_inouを3曲連続くらいかけまくる方(旧横浜ベイスターズ球団歌を流し20年ほど前のベイスターズの情報を鮮明に話してくれる方)など、人によって個性が出てとても新鮮な機会だった。人が音楽を流してその場でその曲の出会いや好きなところを話す感じが(野球の副音声みたいで)本当に良い。あと、他人が居る前だとただ曲を流すだけでも“意図”が産まれてしまう点も非常に興味深かった。皆もやってみて。

こうゆう、夜更かし前提のイベントで「いやぁ俺前日あんま寝れてないんだよねえ」みたいな奴必ず居るじゃないですか。今回自分がそれだったんですけど(照)。最近昼夜逆転生活が激しくて授業や約束事に遅れまくる本当に最低の1週間を送っていて、なんとか今回乱数調整をしたかった。(乱数の計算ろくにしなかったけど)。無事次の日に18時間くらい眠れて、むりやりサイクルを戻すことが出来たことも個人的には良かったかな。(サイクルといえばプロ野球では今年は塩見と牧がサイクルヒットしたね、最近比較的多い気がする。)

 

その次の日は、BBHFという大好きなバンドのliveに初めて行く事ができた。若い層のお客さんが多めでなんか変な緊張を感じたことを覚えている。1曲目から“ホームラン”という曲から始まり(丁度日本シリーズの開始時刻と同じ時間からだったからテンション上がったな)kickのデカさとアンプから鳴らされるギターの音の瑞々しさに久々に酔いしれた。尾崎和樹さんのDrumsって生で聴いているとやっぱり独特で、キープをしながらパターンを変化させ曲をあっためていく感じが本当に“BBHFらしさ”に繋がっていると思う。“煮沸“じゃなくて“電子レンジ”みたいな感じかな。“シンプル”や“なにもしらない”系の直球ロックな曲が場の雰囲気やノリにフィットしていた日だった。『南下する青年』からの曲が少なかったのは、彼らの中で『南下する青年』という作品は想像以上にシームレスなものの上で成立しているのかなとも感じた。短編小説集の中に長編小説のオススメの章を無理して混ぜたくない、みたいな感じだろうか。南下する青年配信liveにて『南下する青年』の曲だけを曲順そのままにした、という事例も強く関係していそうだ。あとcube gardenのドリンクコーナーで貰えるHARIBOはやっぱり嬉しい。存在を忘れた次の日にバックから出てきたHARIBOよりテンションの上がることなんて山田哲人の2015年日シリ3打席連続ホームランくらいしかないよね。(あとはまだ日本シリーズが開催されている時期なのに家の庭に積もる雪くらいだろうか。)

 

たまたま次の日に折坂悠太の札幌公演にも足を運ぶことが出来て(2日連続liveを観に行けるなんてなんて贅沢なんだ)これがまた凄かった。折坂悠太の今年出たalbum『心理』は僕の中で質量の無いまま傍にある(“いてくれる“という表現も此処では似合わない)様な作品で、エゴをあまり感じさせないのに人間味溢れている、奇妙さと普遍さが両立された素晴らしいものだったのだが、liveにてさらにひとまわりもふたまわりも今作品が脱皮した様な印象を受けた。まずバンドメンバーの構成が

折坂悠太(Vo. / Gt.)

yatchi (Pf.)

senoo ricky (Dr. / Cho.)

宮田あずみ (Cb.)

山内弘太 (Gt.)

ハラナツコ (Sax. / Fl.)

宮坂遼太郎(Per.)

なのだが、皆恐ろしいくらい演奏がキマっていた。静寂、タメ、全てが心地よい。“春”などのテンポの遅い曲でも独自のうねるようなグルーヴを途絶えさせることなく、ひとつひとつの音の強弱もしっかり付いていて最後までずっと気持ちよかった。また宮坂さんのゾクゾクさせる音像のPercussionや宮田さんのWood bassの上澄みの部分、senooさんのきめ細かいタッチのDrums、ハラナツコさんの寝息の様に歪んだSaxがバンドのトランジェントの部分をこれ程かという程豊かにし、折坂悠太の発振しているボーカルの合間を掻い潜り時折聞こえてくるこれらの音は、“このまま此処にずっと居させて”と僕に感じさせてくれた。粒立ちの感じさせるこれらの音が折坂悠太の陶器の様な威福な声に見え隠れする音像はサ柄直生『夏の透濁』やquoreeの作品群などの有機的なトラックメーカーの音像を想起させるものだったと思う。そして、驚いたのは山内さんのguitarが全く“guitar”していなかった点である。座ってguitarを弾いていた山内さんの前には小さな台が置いてあり、そこにはギターエフェクターが複数置いてあった。時折エフェクターを手で弄りながらギターを鳴らしていたその音像は、全体を通してほぼPad的な役割に徹しており、リバーブやディレイなどを駆使してguitarの鉄の成分を乱反射させバンドの音像に濁りを沈殿させていた。guitarを(島村楽器の紹介動画のように派手に旋律を弾くことなく)このようにPad的な役割に徹してあげることで、トランジェントが全体的に過度に渋滞することはなく、かといってバンドを単に爽やかな音像に留まらせることを拒絶していたように感じる(アンコール曲の“さびしさ”では逆に爽やかな音像を際立たせていたことも記憶している)。またキーボードや折坂悠太のクラシックギターに関しても徹底的に弾きすぎておらず、バンドの意図と目的が明確に伝わってきた怪演だったように思う。『心理』の曲郡もより好きになり、本当に良い体験でした。2年前に札幌にてイ・ランと弾き語りした回も僕は行ってて、その時の話をしてくれたあとの“윤슬“にて流れたイ・ランの声に何故かとても情緒的になってしまった。早く体調を直してまた札幌に来て欲しい。

 

Twitterをみたらヤマヴ飲料店の店長ことふかふかさんも折坂悠太のliveに参加していたらしく、今度店を訪れた際にliveの話が出来たらなとふと思った。(ふかふかさんという店長の名前は置いといて)平岸にあるヤマヴ飲料店はとても居心地の良いカフェで、カレーや変わった飲み物が置いてあり(何故か酒盗も置いているのだが)全部美味しい。ココアも濃厚で美味しい(本棚は癖が強い)。

前にヤマヴ飲料店にミライノオンガクの稲田さんと一緒に行った際に「焼鳥じゃんの日記は何故あんなに面白いのか」という話をして、本当なんでなんでしょうね。ただ日常で起こった出来事を感想と共に述べていくだけで“面白い“なんて感情にさせることがそもそも異常なんですよ。僕も今回の序盤みたいな創作落語「野球の噺」みたいなスタイルから脱したいですわ。でもなんか直球に書けないんですよね。カーブみたいな話ばかりですわ僕は。

 

 

 

 

 

 

坂ヤクザ

(坂ヤクザは2020/10/20にすすきののノルベサ内の駿河屋にて出現し、秋元組との抗争を開始させた、この抗争の終焉にはおよそ半世紀かかる)

 

 

 

 

久しぶりにブログを書こうと思った、正確にはずっとブログを書こうと思っていたけれど行動に移し切れていなかっただけだ。その日その日に書き留めておきたいことは発生していたけれども、記事を書くということは根気のいることで、完成させてしまう前に下書きに葬られてそのままの文章がいくつもあった。文を残したいと思った自分は日付線をまたいだ途端に消滅し、碇のないボートのように明日を放浪していく、それが心地良いなと思ったこともあったけれど(朝に恥ずかしくなるやつを想像しての惰性)、今日は何かを残そうと思えた、曖昧の産物だ(神々looks youなので)。

火曜は三講議授業が入っていたが、うち二つはオンライン上で行われるものであり、唯一の対面授業(2020年以降人と人がリアルに会って御教えを頂くことを人々は対面授業と呼び出していた)はその間に挟まった形で座していた。わざわざ登校するなら三つともいっぺんに対面で受けたいと思っていたが、講義が行われる白いビルにはwifiといった概念が(永遠に)(極地的に)ないらしいので、一つの短縮された80分授業のために、30分かけて北から南へと南下していくだけの通学路は、酷く湾曲しているように思えた。(人類が唯物論のように直線を描いて進歩していくものだと捉えているのは誰かの勘違いにすぎないのだろう、そんな一年だった)

白いビルの入り口には自動検温機が設置されていたが、二、三人がそのまえをシカトし通り過ぎたので、自分もそれに倣って進んだ。呆れと軽い優越感が湧き上がる、ここで罪悪感を感じるほど、僕はよくできていない。三階に上がり授業を受けて、教室を出てすぐに坂ヤクザに電話した。最短の手筈でこの白いビルから僕は去っていきたかった。

坂ヤクザと待ち合わせたのは必然的にmoleの前だったので、良い日だなと思った。(moleというのはでっかい音がするところ)未だにmoleが何丁目にあるのか覚えていないので、一、二丁の誤差をもってして向かった(豆腐みたいだね)。途中狸小路のベンチで、まるでチラシで棒を作るがごとく本をぞんざいに読んでいる人がいたが、歩きながら二、三秒見るに留めておいた。男は肩に星条旗のプリントされたショルダーバッグをかけていた。足を組んで猫背になりながら、片方の手で蓄えたその白い髭を弄りながら本を読む姿は、なんか知らんけど良い光景だった。油絵になってくれたら、じっと観賞してやろうと思えるやつだった。(天気も乾燥した晴れで好きだった)

坂ヤクザは世界一律儀なヤクザであるため、僕より既に早めに到着していた。横で中川さん(ここでいう中川さんはあの中川さんでまず間違い無いだろう)がなぜか立っていたが、坂ヤクザも自分も(まあいっか、、)的な感じで終わった。中川さんは常に謎に包まれているが、存在に謎の説得力がある人だった。それが今日も例外ではなかったというだけだ。

moleとその隣のコメダ珈琲店の間にある階段を降りると、キングコングというレコード屋さんがある(隣にはゆいまーるというメイド喫茶もある、ここも良いところらしい)。キングコングは往年のR&BやHip-Hop、Jazzのレコードが豊富なところで、とても楽しいところだ。店内のBGMは店長がその時々の気分で流しているようで、昨今のクラブミュージックなどを聴きながらLPをディグることができる、定休日だったけど。

坂ヤクザも自分もgoogleなどで店の定休日を調べておくという習慣が欠如していた、ここで問題なのは、定休日という存在に門前払いを食らうことにお互いが完全に慣れてしまっていて、なんの突っかかりもなく次のアクションを起こせてしまったことにある。そもそもに二人が会った口実がキングコングにいってレコードを漁ろう!だったのにだ。でも僕はこれくらいが好きだった。坂ヤクザもきっとそうなのだろう。これは他人からしたら僕らがだらしないと思われる点かもしれない。でも仕様の無いことのようにも思えた。

ノルベサ駿河屋に移動する間、坂ヤクザが何を言っていたのかはよく覚えていないが、愉快な話だったように思える。坂ヤクザが話す時、僕はその内容よりもその純真な目付きと口調が好きだった。(マスクをしていることが必須となったこのナウシカのような世界では、人々は目を見て相手の喜怒哀楽を察することに長けていた)大抵の人間は話の内容よりも人それぞれの口調、雰囲気を好んで近くにいることを望んでいる人が多いのではないだろうかと僕は思う。でなければ先週辺りに行った飲み会などでの会話をこんなに忘却している訳がないし、僕は人によって話の内容がひどく変化するからだ。

駿河屋には〇〇坂の写真が大量に売られていて、坂ヤクザは興奮して秋元康の悪口とセットに語り始めた(坂ヤクザなので)。自分もこれくらい熱量をこめて話せることがあればいいのになと、彼の演説を聞いて毎回思う。僕は彼の熱量を浴びながら、太陽ノックという曲が印象的だった生駒里奈という既に卒業してしまったメンバーの写真を見つけて、手にとった。

タワーレコードでは坂ヤクザのおすすめのアイドル音楽をCDを見ながら話した。ヤなことそっとミュートというアイドルの名前がいいよね、といわれ、確かにいいなと感じた。ヤなことはそっとミュートすればいいからである。(ヤなことはそっとミュートすればいいからである)そして彼はYMOtofubeatsなどのオタクでもあるので、LPコーナーにてYMOのメンバーないしtofubeatsを見かけるといちいち奇声を発したのち赤面し、呼吸を荒げた。LPを漁るたびに定期的にその反応をするので、彼とここにいるのがとても楽しいなと感じたことを覚えている。僕もLPのjames blakeのjames blakeを見つけて奇声赤面した後、購入した。ずっと欲しかったものなので丁度よかった。今日は良い日だなと感じた。

王将で僕らが1000円のセットメニューを頼み豪遊した後、みn...坂ヤクザが村瀬さん(サークルの先輩)に逢いに行きたいと言いだしたので、逢いにいくことにした。

久しぶりに会う村瀬さんはやはり村瀬さんで、その口調、雰囲気に癒された。カレーを食べに行きたい、808を僕も触りたい、札幌サンプ...などの話をした後、今日二人に会えたから良い日になったよ、とさらっと言われた。

こっちのセリフです、と思いながらその場を後にした。

 

 

 

 

10/21 A.M 5:06,

自室にてjames blakeと生駒里奈の顔が僕を見つめていた

この時間帯になってもまだ暗い季節になってきていて、JRタワーの赤い灯りが窓の外側で煌々としていた

三時間くらいブログを書いていた僕は、頭を左右に小刻みに振ってみた

少しスッキリした

 

 

 

 

 

 

 

 

 

冷笑

この記事を読んで今回の事を書こうかと思った。冷笑主義とは

他者の言動を利己的な利益追求という動機の語彙でつねに解釈しようとする態度

らしい。 僕は”揚げ足取り”とも言えると思う。

 僕は冷笑が好きだ。なぜなら楽に面白い、自分が頑張らなくても他人の揚げ足をとる事で他人とつながっているような気になれるし、頭もよく見えそうだし。正しいと思えることをするよりも人の正しさを否定する方がずっと簡単な気がする。しかし、以前の僕よりかは冷笑を操れるようになってきた自信が湧いてきたので、この記事を書いている。

冷笑は様々な場所に潜んでいる。(ここでの冷笑は上の記事の意味合いと少し異なってくるかもしれません)

 

 まず、冷笑はスポーツの文化と密接に結び付いているのだと僕は感じる。僕の父は仕事から帰ってくるなり野球をTVで観ることが多いのだが、常に選手を馬鹿にしている。この前の侍ジャパンの壮行試合にて山口俊というジャイアンツの選手が炎上した際には、一年ほど前に彼がお酒に酔い暴動を起こした事と絡めボロクソに彼の人格否定をひけらかし始めた。今日も世界中にて様々なスポーツの中で様々な”失敗”が発生し、それを大々的に否定する事でエネルギーを得ている人々が社会を動かしていることは、”なんj”などのサイトを少し覗けば明らかなことである。

 

 お笑いとも関連が深い、時にコンプレックスを昇華させ人を救う芸人のプロの絶妙な技は本当にすごいと感じたりする。ていうか話が上手い人は”冷笑”が上手い気がする。バラエティのいじりの文化とかを観ていてもよく思う。しかし、”冷笑”の用法容量を知らない人が使う冷笑はびっくりするほど面白くない、とよく感じる。人のどうしようもならない点を一緒に笑い合い慰めるという感覚がなく、ただただ馬鹿にすることが絶対的に面白いと勘違いをしている。だから彼らの特性として、ルッキズムが激しいというのがある、と感じる。僕の父もTVに女性の顔が映る度に「変な顔だな」とかよく言う。それに対し本当に面白くない、と母とよく共有したりする。アイドルなどに対して当たりが厳しい人にもこれが当てはまりそうだ。

 

 そして引用した記事にもあったようにネットは冷笑を共有と言う形で加速させている。”正義の盾”のもと集うも良し、右翼思想に乗っかり韓国人などに対し残念な言葉などを言ってしまう人がいるのも本当にまた悲しい事実である。集団には力が宿り、人を狂わす、と感じる。”ネットでの議論は可能か”という項目が記事にあったが、”批判”とは”物事を前に進ませるため”の論理的なものでなければならず、ネットをストレスの吐口として利用する文化と衝突せざるを得ない状況で、僕の中では、議論は可能ではあるが、後者がめちゃくちゃ”邪魔”になっているという表現がしっくりくる。

 

 さて、ここまでの内容はネット上でよく批判されている事柄のように思える。冷笑主義は見ての通り基本最悪である。彼らは楽に面白い冷笑が大好きだし、他人と何かで繋がりたい欲求が高いので人をルッキズムジェンダー、文化の違いなどで貶めようとし、誰かが傷ついている。そこで傷ついた人は本当に絶対的に救われるべきなのだ、なぜなら100%その人達は悪くないし、あまりにも一方的だからだ。今から話すことはこの点が最低ラインの前提として話すのだが、この問題の大抵の解決の手段は”どうしようもない彼ら”を無視、すなわち冷笑するしかないように思える。論理の成り立っていない言葉の刃など、無視が一番良いからだ。もっと言ってしまえば”冷笑”の格好の餌食とも言える。

 

 僕の長年のネットに対する違和感はここにあると今感じていて、なんだ、こう、どうしようもない感が本当にたまに悲しくなる。冷笑主義をようやく俯瞰して見られるようになったと思ったら、そこには”冷笑主義への冷笑”が待っている、なんという皮肉なのだろうか笑。僕は気付いたら父をも冷笑していた。やはり僕は冷笑が好きだ。

 

 僕が言いたいのは、正論で冷笑主義者の被害者の心は救われるが、冷笑主義者は救われないという事だ、何故なら彼らは”開き直っている”から正論は効かないのだ。いや実際には効いているのだがそれが悪い方向にでやすいと思う。僕がそうだったから解る気がする。彼らには正論より愛が足りない、幼少期のころに自己肯定感の高め方を習得することができなかった彼らは、陰口を叩くことで己の自尊心を守ってきた。冷笑とともに育ってきた彼らはネットに出会い、冷笑の大きな力の渦に魅了され、迎合していく。

 

 しかし、今の時代にネットにおいて陰口を叩くという文化は、完全に終わりを迎えようとしている気がしてならない。利益として見た時の”終わり”だ。一つの”ダサい”力の枠に吸収され本当に”キツい枠”として正論派からも認識され、ある程度冷笑されてしまう現状からも逃げて逃げて悪口を叩く人に一時的な快楽など、ほぼ無いに等しい。快楽が少ないから、彼らは冷笑主義を加速させるしかない。何故なら彼らは己の自尊心のピュアな育み方を習得できなかったのであり、自分がどうすれば誰かに勝てるのか、わからないからだ。前提から間違っていると僕は考える。他人に勝つという行為は己が成長するための枠組みの一つでしか無いのであって、本当は他人に勝つという価値観は、自分が成長していくという価値観を超えるべきで無い。ていうか他人なんかに勝つ必要なんて全く無いのかもしれない、実は。

 

 人はやろうと思えばいくらでも人を貶めることができる、どんなに優しい人を前にしても、人間には必ず欠点があるからだ。「〜が好きだ」という意見に対しても「〜が好きだとこいつは思われたいんだな」とかも思えてしまう。そしてその行為が人間として高尚な事であるとか大人になる事だとか考えだすともう最悪だ。言葉は自分に帰り、純粋に何かが好きであるというプリミティブな感情がどんどん希薄になり、本当につまらない人間になってしまう。何かだるい、とか、夢中になれる物がないという感覚に苛まれ生きるのがどうでもよくなってくる。しかし、解決手段がわからないので冷笑主義のノリに走るしかないのだ、本当に沼である。

 

 小説家などのプロは、何かどうしようもない現実や美しさに”貢献”しようと思って書いているのであって、しっちゃかめっちゃかに悩んでいるわけではないのだと、僕も最近気付いた。”冷笑主義”とそうでない人の最大の違いはそこにあると僕は考える。何が物事を前身させるため、”貢献”するために物事を考えている。凡人が全ての物事に対し唾を吐き、批判し、クールぶったり天才ぶったりするのは本当にダサい、一番ダサいと思う。僕もそんな時期があったで解るのだけれども、この思想に陥ると本当に救われない。何故なら、何にも貢献できないし、終わりがないからだ。本当に辞めることをお勧めする。芸術とは悦に入るものではなく、己の悩みや思想や美しさを泥臭く前身させることによって結果的に誰かに”貢献”できる物なのではないかと、最近よく考える。

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 以前の僕ならこんな文章は書けなかった、何故なら自分の文に対しての冷笑が始まるからだ(今も若干内心で始まってはいるが)。所詮人間から生まれた行動や言葉からは”こう思われたい”といった思惑が少なからず付随する。それに敏感になりすぎてしまうと、”何にも心情的な変化がない時”が一番楽に感じ始め、いずれ枯れるのだ。そう、僕は三年程前、一度マジで枯れていた。今思い返せばあの頃の感覚は本当に怖い、薄甘い絶望だ。

 

 昔の僕がこのブログを読んだらきっと「悦に入ってる」とか「分かった気になっているだけのクソ野郎」とか思っていただろう。現にこれを読んで思っている読者の方もいるだろうと思う。でも今の僕はそんな感情や人が、びっくりするほど怖くない。何故なら僕は”冷笑主義の力の渦に苦しむ人”、つまり、誰かに貢献しようと思って書いているからだ。何かに貢献しようという力がこんなにも強い力だとは思いもしなかったし、それを気付いて欲しい。貢献するものはなんでもいいと感じる、”自分”でもいいし”横にいる誰か”でもいいし”美しさ”でもいいと思うし”仕事”とかでもいいと思う。ただ、無理をしすぎて己の身を削りすぎてもそれはそれで病む。要はバランスが大事だという結論になるのだが。ずっと一つ思っていたのは、身を削りすぎている人を救おうとする文はネット上にでも結構あるのだけれども、冷笑主義によって枯れている人を救おうとする文は意外とないな、ということだ。なので、今回書いてみた、、ということだ。

 

誰でも前進していいし、冷笑で最強になる必要はない!

 

 

 

 

 

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ブログ始め:Freindship(星野源)考察

こんにちはクコルカです。最近市立大にてイベントに出させて貰ったのですけど、楽しかったですね。(本当にありがとうございました)祈りは注意力という言葉が有りまして、木漏れ日溢れる森の中でそんな感じになりました。hugvillaさんという方もこのイベントに出ておられてまして、綺麗なエレクトロニカをバックに詩の朗読をしていくのですが、そこに強い祈りを感じて、自分においてもそれを当てはめる事が出来た感じです。これが本当に何とも言えない良さがあるんですよ。ひとつのことに没入していく時間、つまり祈りは自分の中にあるマイナスな感情を限りなくゼロに近づけてくれますでしょう?自分はプラスになったらいずれマイナスになる事を考えてしまうたちなので、本当に良いんです。ラーメンが美味しいとかSNSでいいね!を沢山貰うとかとはまた全然ベクトルの違う良さなんですよ。僕はこの良さがようやく解ってきた気がするんです最近。その分目先の欲望の暴走に走る自分とのギャップにイライラする事も増えてきました。そしてまた“プラスの時にマイナスになる事考えてもしょうがなくない?あーただただたのしーことしたい”モードになってくるんですねー。どっちかのモードに固定出来れば楽なんでしょうけども、その固定してしまう事に関してもまた恐怖してしまうんでしょうね。ああやだやだ、ブッダになりてえ。

 

自分のマブダチ、焼鳥ぢゃんにブログを始める事を今年の6月くらいに勧められてから幾分か機会を伺っていたのですが、今日きっかけをようやく掴めたので、始めます。(焼鳥ぢゃん、ありがとう!)

https://twitter.com/kinada23/status/1176141094418964480?s=21

こんなツイートが流れてきたので、ちょっと書きたくなったのですよ。(k/inadaさん、ありがとう!)

https://open.spotify.com/track/6BQkSdgPMRdXTfW3ZT0WHY?si=v3eRenSQS_6MNk_u7WQXiQ

星野源のFreindShip、本当に良い曲!

今回はこの曲について思う今日この頃を書いていきます。

 

まず、この曲の解釈は”ヒトの笑いという仕草への解釈”であると自分は考えます。

「わからないまま 笑い合うさま」

という歌詞が印象的ですが、ここで重要なのは

分かり合う≠笑い合う ということだと思うんです。

そもそも人間の全てをさらけ出して分かり合うことなんて自分には不可能な話に思えてしまうんです。必ずどちらかがあの部分では無理をして、この部分ではもう片方が、、、のやり取り、接し方の中での笑い合いなんです。例えば相手の言葉がうまく聞き取れなかった時(自分は他人の話を言語化する能力に乏しいのでよくある)愛想笑いをヒトは良くするじゃないですか。自分は、ヒトと対話する中での笑いには、その“愛想笑い”が(割合は時によって様々、限りなくゼロに近づく場合もあるが絶対にゼロにはならない)必ず含まれているんじゃないかと思うんです。お笑い番組を一人で見る時と複数人で見る時では笑いの量が違う様に、家では地球くんのツイートを真顔でいいね!するのに友達とはゲラゲラ笑えてしまう様に。でも愛想笑いがないとヒトと対話するのってかなり厳しくなると思うんです。全てがわかり合って同じ事がツボな人なんてこの世に居ないからです。(そんな世界逆につまらないと思う)

 

そんな世の中でこの曲の主人公はヒトと対していく中で、確実に、絶対的に、保障された不変の愛を探している、というまさに絶望的なシチュエーションの中にいるわけですね。(でもこの感覚って一回は必ず誰しもが持ったことありますよね、これが彼のポップ感というか、ひしひし感じます)

「君の手を握るたびに わからないまま

胸の窓開けるたびに わからないまま

笑い合うさま」

人生の中でヒトと会う。この人は私の全てをわかってくれるかもと思い、少しさらけ出してみる、ん?違うか、、、の繰り返しの日々の中で愛想笑いだけが上手くなっていく。心の起伏の動きがよく現れているとても好きな表現です。その中で正直に笑っていない自分が嫌になってしまう、不安になってしまい、ひとりだけでいるのが気楽になっていくわけです。

 

でも好きな人がいづれできるわけですよ、人間なので。でも絶対にわかりあえない、このもどかしさ、絶望さ。必ず何処かでぶつかり合う。でもその人といる時間が本当に好きだから、その度にどちらかが無理をして笑ったりし合う、“本質を突かないまま逃げ切る”とでも言いましょうか。完璧な人なんて居ないので欠点を突こうと思えば誰でも突つけるわけです。それは距離が近くなればなるほど、肌のシミの様に明瞭になってくるわけです。それでも好きだからそのシミに気づいていない振りをする、無理する。愛想笑いで時を埋めていく。そして、いつまでもいつまでも二人が笑い合った末に、彼はこのような言葉を送っているんです。

「わからないまま わかりあった」

わからないまま 、わかりあった。つまり、“絶対に分かり合えない世界の中で、一瞬だけ、僕は君とわかりあった感覚になったんだ”ということだと自分は解釈します。この感覚のなんと儚いことでしょうかね。曲の構成の中でも“わかりあった”のフレーズを喰いぎみに次の“君の手が”のフレーズに移り変わっていくこの配置が、分かり合った感覚の刹那感を増幅させているようにも思えます。

 

そしてまたその感覚は一瞬にして消え失せます。

「君の手がほどけるとき 叶わないまま

胸の窓光る先に 手を振りながら

離れ行く場所で 笑い合うさま」

絶対的な愛、理想は叶わないままです。しかしその感覚から離れ行く場所でも彼らはまだ笑い合っています、またその感覚を味わいたいからです。

 

これらのことを踏まえて結論から言いますと、この歌は分かり合えた感覚に辿り着く為の仕草、つまり愛想笑いを、星野源が絶対的な愛に昇華させようとしている歌だと自分は思うんです。絶対値の高い”love”の領域世界とは関係を持たない、このような愛のカタチのことを、彼は改めて”freindship”と呼んでいるのではないでしょうか。

この曲における“笑い”とはヒトとヒトが深くなりすぎた時に使う仕草、一旦ゼロにしてくれる技だと思うんです。一番最初の話に戻りますが、つまり笑いとは“祈り”だと思うのです。ヒトに好きと伝えるプラスでもなく、ヒトに悪口を言うマイナスでもない、ただただ間を繋いでいき時間を引き伸ばしゼロに近づけていくという祈りに似た行為なんです。“二人で行う祈り”、それが“互いに笑い合うこと”なんだと、自分なりに納得をすることができました。“好きと言われても絶対的には信用できない、嫌いと言われてもそれは気持ちの裏返しなのかもしれない、絶対に分かり合えない、ならば僕と一緒にゼロになろう、それが愛(freindship)なんだ”ということです。心から出た笑いじゃなく、愛想笑いでもそれでいいんだ。己を全てひけらかし強烈なloveを叫び、湧き出るhateにいちいち反応しなくても、ヒトとヒトはほぼ絶対的な愛(freindship)で繋がることができるんです、という聖書ばりの救いが(結果的に?)この曲に落とし込められているのでは、と僕は思うのです。

 

この“人間関係でガチになりすぎない、深追いしすぎない優しさ”の感覚は、“真面目にふざける”が信条である彼にとって一つの大きな柱になっていると自分は考えます。つまり、この曲は彼の生き方の指標そのものなのかもしれないですね。そして、昔から彼は言っていることはなに一つ変わってなかったのかなとも思います。

「くだらないの中に 愛が」 

です。

いやー、気づいてびっくりしてしまいました。

笑いやくだらないこと、それは祈りであり、愛なんですね。何気なく友達と笑っている時間を大切にしようと思えてくる、そんな一曲でした。

 

いやー、改めて良い曲だなと、文を書いていて思いました。ちょっと自分の中のモヤモヤを解消しながら書いていったので、たどたどしいところは多少あったかと思われますが、最近の自分の悩みがかなりすっきりしたなあと、自分でもびっくりしていく所存であります。文を書きながら思考すると考えが柔軟になっていって気持ちいいですね。

少し長くなりすぎてしまいました。また投稿したいですね、それではー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P.S. このブログをもんじゃさんこと澤田さんに捧げたいと思います。タイミング的にも経緯的にもこのブログは澤田さんが僕に書かせたものだと何故か確信できています。もっと色々な話を伺いたかったです。今までありがとうございました。