クコルカ.128kbps

冷蔵庫のメモ感覚

ブログ始め:Freindship(星野源)考察

こんにちはクコルカです。最近市立大にてイベントに出させて貰ったのですけど、楽しかったですね。(本当にありがとうございました)祈りは注意力という言葉が有りまして、木漏れ日溢れる森の中でそんな感じになりました。hugvillaさんという方もこのイベントに出ておられてまして、綺麗なエレクトロニカをバックに詩の朗読をしていくのですが、そこに強い祈りを感じて、自分においてもそれを当てはめる事が出来た感じです。これが本当に何とも言えない良さがあるんですよ。ひとつのことに没入していく時間、つまり祈りは自分の中にあるマイナスな感情を限りなくゼロに近づけてくれますでしょう?自分はプラスになったらいずれマイナスになる事を考えてしまうたちなので、本当に良いんです。ラーメンが美味しいとかSNSでいいね!を沢山貰うとかとはまた全然ベクトルの違う良さなんですよ。僕はこの良さがようやく解ってきた気がするんです最近。その分目先の欲望の暴走に走る自分とのギャップにイライラする事も増えてきました。そしてまた“プラスの時にマイナスになる事考えてもしょうがなくない?あーただただたのしーことしたい”モードになってくるんですねー。どっちかのモードに固定出来れば楽なんでしょうけども、その固定してしまう事に関してもまた恐怖してしまうんでしょうね。ああやだやだ、ブッダになりてえ。

 

自分のマブダチ、焼鳥ぢゃんにブログを始める事を今年の6月くらいに勧められてから幾分か機会を伺っていたのですが、今日きっかけをようやく掴めたので、始めます。(焼鳥ぢゃん、ありがとう!)

https://twitter.com/kinada23/status/1176141094418964480?s=21

こんなツイートが流れてきたので、ちょっと書きたくなったのですよ。(k/inadaさん、ありがとう!)

https://open.spotify.com/track/6BQkSdgPMRdXTfW3ZT0WHY?si=v3eRenSQS_6MNk_u7WQXiQ

星野源のFreindShip、本当に良い曲!

今回はこの曲について思う今日この頃を書いていきます。

 

まず、この曲の解釈は”ヒトの笑いという仕草への解釈”であると自分は考えます。

「わからないまま 笑い合うさま」

という歌詞が印象的ですが、ここで重要なのは

分かり合う≠笑い合う ということだと思うんです。

そもそも人間の全てをさらけ出して分かり合うことなんて自分には不可能な話に思えてしまうんです。必ずどちらかがあの部分では無理をして、この部分ではもう片方が、、、のやり取り、接し方の中での笑い合いなんです。例えば相手の言葉がうまく聞き取れなかった時(自分は他人の話を言語化する能力に乏しいのでよくある)愛想笑いをヒトは良くするじゃないですか。自分は、ヒトと対話する中での笑いには、その“愛想笑い”が(割合は時によって様々、限りなくゼロに近づく場合もあるが絶対にゼロにはならない)必ず含まれているんじゃないかと思うんです。お笑い番組を一人で見る時と複数人で見る時では笑いの量が違う様に、家では地球くんのツイートを真顔でいいね!するのに友達とはゲラゲラ笑えてしまう様に。でも愛想笑いがないとヒトと対話するのってかなり厳しくなると思うんです。全てがわかり合って同じ事がツボな人なんてこの世に居ないからです。(そんな世界逆につまらないと思う)

 

そんな世の中でこの曲の主人公はヒトと対していく中で、確実に、絶対的に、保障された不変の愛を探している、というまさに絶望的なシチュエーションの中にいるわけですね。(でもこの感覚って一回は必ず誰しもが持ったことありますよね、これが彼のポップ感というか、ひしひし感じます)

「君の手を握るたびに わからないまま

胸の窓開けるたびに わからないまま

笑い合うさま」

人生の中でヒトと会う。この人は私の全てをわかってくれるかもと思い、少しさらけ出してみる、ん?違うか、、、の繰り返しの日々の中で愛想笑いだけが上手くなっていく。心の起伏の動きがよく現れているとても好きな表現です。その中で正直に笑っていない自分が嫌になってしまう、不安になってしまい、ひとりだけでいるのが気楽になっていくわけです。

 

でも好きな人がいづれできるわけですよ、人間なので。でも絶対にわかりあえない、このもどかしさ、絶望さ。必ず何処かでぶつかり合う。でもその人といる時間が本当に好きだから、その度にどちらかが無理をして笑ったりし合う、“本質を突かないまま逃げ切る”とでも言いましょうか。完璧な人なんて居ないので欠点を突こうと思えば誰でも突つけるわけです。それは距離が近くなればなるほど、肌のシミの様に明瞭になってくるわけです。それでも好きだからそのシミに気づいていない振りをする、無理する。愛想笑いで時を埋めていく。そして、いつまでもいつまでも二人が笑い合った末に、彼はこのような言葉を送っているんです。

「わからないまま わかりあった」

わからないまま 、わかりあった。つまり、“絶対に分かり合えない世界の中で、一瞬だけ、僕は君とわかりあった感覚になったんだ”ということだと自分は解釈します。この感覚のなんと儚いことでしょうかね。曲の構成の中でも“わかりあった”のフレーズを喰いぎみに次の“君の手が”のフレーズに移り変わっていくこの配置が、分かり合った感覚の刹那感を増幅させているようにも思えます。

 

そしてまたその感覚は一瞬にして消え失せます。

「君の手がほどけるとき 叶わないまま

胸の窓光る先に 手を振りながら

離れ行く場所で 笑い合うさま」

絶対的な愛、理想は叶わないままです。しかしその感覚から離れ行く場所でも彼らはまだ笑い合っています、またその感覚を味わいたいからです。

 

これらのことを踏まえて結論から言いますと、この歌は分かり合えた感覚に辿り着く為の仕草、つまり愛想笑いを、星野源が絶対的な愛に昇華させようとしている歌だと自分は思うんです。絶対値の高い”love”の領域世界とは関係を持たない、このような愛のカタチのことを、彼は改めて”freindship”と呼んでいるのではないでしょうか。

この曲における“笑い”とはヒトとヒトが深くなりすぎた時に使う仕草、一旦ゼロにしてくれる技だと思うんです。一番最初の話に戻りますが、つまり笑いとは“祈り”だと思うのです。ヒトに好きと伝えるプラスでもなく、ヒトに悪口を言うマイナスでもない、ただただ間を繋いでいき時間を引き伸ばしゼロに近づけていくという祈りに似た行為なんです。“二人で行う祈り”、それが“互いに笑い合うこと”なんだと、自分なりに納得をすることができました。“好きと言われても絶対的には信用できない、嫌いと言われてもそれは気持ちの裏返しなのかもしれない、絶対に分かり合えない、ならば僕と一緒にゼロになろう、それが愛(freindship)なんだ”ということです。心から出た笑いじゃなく、愛想笑いでもそれでいいんだ。己を全てひけらかし強烈なloveを叫び、湧き出るhateにいちいち反応しなくても、ヒトとヒトはほぼ絶対的な愛(freindship)で繋がることができるんです、という聖書ばりの救いが(結果的に?)この曲に落とし込められているのでは、と僕は思うのです。

 

この“人間関係でガチになりすぎない、深追いしすぎない優しさ”の感覚は、“真面目にふざける”が信条である彼にとって一つの大きな柱になっていると自分は考えます。つまり、この曲は彼の生き方の指標そのものなのかもしれないですね。そして、昔から彼は言っていることはなに一つ変わってなかったのかなとも思います。

「くだらないの中に 愛が」 

です。

いやー、気づいてびっくりしてしまいました。

笑いやくだらないこと、それは祈りであり、愛なんですね。何気なく友達と笑っている時間を大切にしようと思えてくる、そんな一曲でした。

 

いやー、改めて良い曲だなと、文を書いていて思いました。ちょっと自分の中のモヤモヤを解消しながら書いていったので、たどたどしいところは多少あったかと思われますが、最近の自分の悩みがかなりすっきりしたなあと、自分でもびっくりしていく所存であります。文を書きながら思考すると考えが柔軟になっていって気持ちいいですね。

少し長くなりすぎてしまいました。また投稿したいですね、それではー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P.S. このブログをもんじゃさんこと澤田さんに捧げたいと思います。タイミング的にも経緯的にもこのブログは澤田さんが僕に書かせたものだと何故か確信できています。もっと色々な話を伺いたかったです。今までありがとうございました。